現在の『白鳥の湖』で、ひときわ有名な場面の一つが、第3幕の「黒鳥のパ・ド・ドゥ」です。
オディールとジークフリート王子が踊る、あの華やかな場面ですね。

ただし、以前の記事でも紹介したように、現在「黒鳥のパ・ド・ドゥ」として知られている音楽の中心部分は、もともと第3幕のために作曲されたものではありません。
1895年の蘇演で、第1幕にあったチャイコフスキーの音楽が第3幕へ移されたことで、現在の形につながっていきました。

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では、ここで一つ疑問が浮かびます。
それでは

1895年に音楽が移動してくる前、1877年の第3幕では何を踊っていたのでしょうか?

答えは、意外にも「別のパ・ド・ドゥ」です。
しかも、その背景には一人のバレリーナの存在がありました。

1877年、ソベシチャンスカヤが登場

『白鳥の湖』が初演されたのは1877年2月20日。
初演でオデット/オディールを踊ったのは、ペラゲヤ・カルパコワでした。
その時は第3幕にはいわゆる「黒鳥」に当たる役柄のパ・ド・ドゥはなく、作曲もされていませんでした。

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ところが、初演から約2か月後の4月26日、第4回公演では主役が変更され、カルパコワに代わってアンナ・ソベシチャンスカヤが踊ることになります。
そして、このソベシチャンスカヤが、第3幕に自分のためのパ・ド・ドゥを当時の振付家に求めたとされています。
ここが、現在の「黒鳥のパ・ド・ドゥ」の歴史を考えるうえで、とても重要なポイントです。

「自分のパ・ド・ドゥ」が欲しい!

現代の感覚では、完成したバレエ作品に対して、主演バレリーナが
「自分のパ・ド・ドゥを入れてほしい」
と要求するのは、少し驚くかもしれません。

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しかし、19世紀のバレエ界では、これはそれほど特殊なことではありませんでした。
当時のバレエは、現在のように
「作曲家が全曲を書き、振付家がそれに振り付け、ダンサーが完成した作品を踊る」
という単純な制作過程ではありません。
スター・バレリーナが自分の見せ場を求め、そのために新しい音楽や振付が用意されることもありました。
ちなみにもう一つの追加曲として有名な「ロシアの踊り」も、初演時に、各国の踊りの中にロシアの踊りがないのはおかしいということになり、チャイコフスキーがしょうがなく作曲したと言われています。

ともあれソベシチャンスカヤも、自分のためのパ・ド・ドゥを第3幕に入れようとします。
彼女はサンクトペテルブルクまで出向き、レオン・ミンクスに作曲を依頼し、その曲を使って踊ろうとしました。
そして、この出来事から次に述べる有名な「チャイコフスキーの書き直し」の話が生まれます。

チャイコフスキーが書き直した……?

よく知られている説明では、チャイコフスキーは『白鳥の湖』にミンクスの音楽が入ることに大反対!
そこで、すでに作られていた振付を変更しなくても済むように、ミンクスの音楽と同じ長さ・構成になるよう、チャイコフスキー自身が新しい音楽を書いた、とされています。
実際に当時の公演ポスターには、第3幕に「パ・ド・ドゥ」の表記が加えられており、ソベシチャンスカヤの名があるので、パ・ド・ドゥを踊っていることは間違いありません。
これが、後に「ソベシチャンスカヤのパ・ド・ドゥ」と呼ばれるようになった、というわけです。
……ところが、この話、実は少し胡散臭い側面があります。

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では、その楽譜はどこにある?

ミンクスが最初に書いたという音楽は、現在その原曲を確認できません。
そして、チャイコフスキーが書いたとされるパ・ド・ドゥについても、1877年の完成した自筆総譜は現存していません。

一方で、20世紀になって関連する資料が発見されています。
モスクワ近郊クリンのチャイコフスキー博物館で、幻だったチャイコフスキーの『白鳥の湖』のパ・ド・ドゥの一部(とされたもの)が、振付家ブルメイステルや博物館員によって掘り起こされます。

そこにはヴァイオリンのレペティトゥール用パートや、チャイコフスキーのスケッチなどが含まれており、それらをもとに編曲者が管弦楽版を作り、新たに””発見された””パ・ド・ドゥとしました。
つまり、現在私たちが聴くことのできる「ソベシチャンスカヤのパ・ド・ドゥ」は

1877年にチャイコフスキーが完成させたオーケストラ総譜が、そのまま残っているわけではない

のです。
そのためソベシチャンスカヤは、望み通りにパ・ド・ドゥは踊ったかもしれませんが

「1877年の舞台でそのまま演奏された音楽=現在の演奏されている音楽」

と見なすことには、少し慎重になる必要があります。
特に、「チャイコフスキーがミンクス版とまったく同じ小節数・構成で書いた」という有名な説明も、ミンクスの原曲そのものが現存していない以上、楽譜同士を並べて確認することはできません。

ブルメイステル版などで使用される「幻のパ・ド・ドゥ」

それでも、この発見された音楽がチャイコフスキーによる作曲である可能性は、一応のところあります。

なので、1953年初演のブルメイステル版『白鳥の湖』では、この「ソベシチャンスカヤのパ・ド・ドゥ」とされる音楽の一部が、第3幕のアダージョ男性ヴァリエーションとして使用されています。
初演で演奏されていたものを復活させたという事実を、大きなセールポイントとして利用したわけです。

また、この音楽は後にジョージ・バランシンが振り付けた「チャイコフスキー・パ・ド・ドゥ」としても有名になりました。
バレエファンにはどちらかというとこちらの作品として曲が知られており、独立した作品として聴けばとても魅力的な音楽です。

このように現在聴かれている形が、1877年のチャイコフスキー自身によるものなのかは、簡単には断定できないのですが、様々な演出ですでに広く使用されているのが現状と言えるでしょう。

「黒鳥のパ・ド・ドゥ」の前に、もう一つのパ・ド・ドゥがあった!

こうして見ると、『白鳥の湖』第3幕のパ・ド・ドゥの歴史は意外なほど生まれ変わりしています。

①まず1877年のチャイコフスキーの初演用スコアには、現在の「黒鳥のパ・ド・ドゥ」にあたる音楽は、そもそも第3幕にはありませんでした。

②その後主役が交代し、新たにヒロインを務めることになったソベシチャンスカヤのために用意されたパ・ド・ドゥができます。
(通称:「ソベシチャンスカヤのパ・ド・ドゥ」

③そしていつしかそのパ・ド・ドゥは踊られなくなり、1895年の蘇演で、第1幕にあった別のチャイコフスキーの音楽が第3幕へ移動し、現在の「黒鳥のパ・ド・ドゥ」となります。

④最後に20世紀に入って「ソベシチャンスカヤのパ・ド・ドゥ」が””見つかった””とされて、奇跡の復活(?)を果たします。

1877年の舞台で実際にどのような形で演奏されたのかは分かっていませんが、とりあえず判明していることはここまででしょう。

最後に:「パ・ド・ドゥ」の真の歴史を知りたい気持ちはあるけど…。

もちろん、もしミンクスの原曲やチャイコフスキーの完全な自筆総譜が、どこかからひょっこり発見されたら、ぜひ真実を知りたいところです。
でも、ちょっと複雑な気持ちもあります…。

もし将来の大発見によって、現在「チャイコフスキー・パ・ド・ドゥ」として知られている音楽について、実はチャイコフスキーの作品ではない、あるいは私たちが思っていたほどチャイコフスキー本人の手によるものではない、と判明したら……。

「えっ、じゃあ今まで聴いていた『チャイコフスキー・パ・ド・ドゥ』って何だったの?」

となってしまいそうですね……。

歴史の真実は知りたい。
でも、たとえば「聖徳太子は実在の人物ではなかった」という説(聖徳太子虚構説が実際にある)が決定的に証明されたら、ちょっとショックですよね。
「じゃあ昔使っていた一万円札は何だったんだ!」
……みたいな(笑)。

それと同じで、謎は謎のまま残っていてほしい気持ちも、少しだけあります。

とはいえ、現在のところ確かなのは、1877年の第3幕には「ソベシチャンスカヤのためのパ・ド・ドゥ」が存在したが、1895年の蘇演ではそれは使われず、現在の「黒鳥のパ・ド・ドゥ」へとつながる別の音楽が第1幕から移動してきたこと。

「黒鳥のパ・ド・ドゥ」の歴史をたどると、その陰には、もう一つのパ・ド・ドゥが見え隠れしていると言えるでしょう。