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映画『女は二度決断する』7つのポイント(ネタバレ注意)

今回は映画『女は二度決断する』の感想です。

実際にあった爆弾テロ事件を元にした重たい内容の話ですが、映画ファンには必見と思える映画でした!

ドイツの移民政策事情政治的背景の知識があれば理解が深まると思いますので、7つのポイントに分けて、お話ししたいと思います。

1.映画の舞台背景・トルコ系移民への差別

ドイツは1950年代あたりから、労働力不足を補うなどの理由から、トルコ、イタリア、ポルトガル、ギリシャなどから移民を受け入れてきました。

1960年代からは特にトルコからの流入が多くなり、現在ドイツで移民問題となると、まずはトルコ系の話が中心となります。

日本でも在日外国人が増えると同時に、文化・風習が異なるため各地で住民との軋轢が生まれたり、教育の機会がなく言葉の壁からコミュニティから外れてしまう問題も出てきていますが、現在のドイツもそのような外国人問題を抱えています。

ドイツのトルコ系移民も同様で、1/3はうまくドイツの生活に溶け込んでますが、残りの1/3は苦しいながらも何とか生活しており、あとの1/3は苦しい生活状況となっています。

そして、ドイツの生活にうまく適応できていても、差別は生まれます。

サッカーのドイツ代表は、ロシアワールドカップで予選での敗退となりましたが、その時トルコ系移民であるのメスト・エジル選手が戦犯の槍玉に挙げられました。

彼自身もいろいろ落ち度はあったのですが、サッカーファンやドイツサッカー協会からも有形無形の差別を激しく受けたらしく

「勝てばドイツ人、負ければ移民」

と言って、ドイツ代表を引退しました。

彼のような成功した人でも、ひとたび落ち度があると差別的なことを言われてしまうところに移民問題の根深さを感じられます。

映画の話ですと、トルコ系移民への差別は、ネオナチによる爆弾テロだけではありません。

それは主人公カティヤの母親の態度にも表れています。

テロの直後、カティヤの家に親族が集まっていますが、義理の両親たちとカティヤの母は物理的に距離をとっています。

また、カティヤの所持していた麻薬を、警察には死人に口なしとばかりに、カティヤの夫ヌーリの所持品としてなすりつけようとしたり、冒頭の結婚式でも両親は出席しておりません。

最後にはヌーリのことを悪く言ったため、カティヤと決別する形で映画から姿を消します。

普通のドイツ人の中にも、このようにトルコ系移民への潜在的な差別感情があることを、この映画は、カティヤの母親を通して表現しています。

2.実際の爆弾テロ事件をモチーフ

この映画はドイツで2000年~2007年の期間に、実際にあった爆弾事件をモチーフにしています。

それが、NSU(国家社会主義地下組織)によるドイツ在住外国人を狙った爆弾テロです。

NSUは、移民の殺害を目的とした極右グループであり、2000年代に数々の外国人を殺害しました。

出典:『女は二度決断する』公式サイト

ただし、この事件は、テロの悲惨さよりも、ドイツ警察の戦後最大の失態がクローズアップされることが多いです。

ドイツ警察はこれらの犯行を最初外国人同士による犯罪組織の抗争として捜査を始めます。

ドイツ人による犯行とは思わず、移民同士の麻薬取引などの内輪もめとして扱ったのですね。

また、移民ということで、捜査は怠慢となり、調査書類の管理などもずさんだったらしいです。

このように初動捜査を見誤った結果、犯人たちを野放しにしてしまい、約10年もの間、NSUによるテロや殺人が発生してしまいました。

本作は、この幾多のテロ事件の縮図となっています。

カティヤは警察で、捜査状況の説明でなく、被害者である夫ヌーリの身元について聞かれます。

クルド人か?イスラム教に熱心だったか?どんな思想なのか?

また、かつて麻薬の密売をしていた前科などを聞かれたりもします。

被害者にもかかわらず、まるで容疑者でもあるかのように扱われてしまうことで、カティヤは大いに傷ついていきます。

最終的にネオナチ信奉者の夫婦が捕まりますが、それは加害者の父親の通報で判明することであって、カティヤの目撃証言とネオナチによる犯行であるという主張はまったくの無視でした。

このような警察の失態を映画では、カティヤの物語を通して描いているのですね。

3.問題のある主人公たち

警察の失態を描いてはいますが、この映画、紋切り型の勧善懲悪の話とはなっていないところが、プロットとして素晴らしいところです。

爆弾によって亡くなるヌーリは、かつて闇社会とつながる仕事をしていました。

警察の失態もありますが、アメリカでイタリアンマフィアなどが暗躍していたのと同様に、ドイツでも移民の人たちが苦しい貧困状況の中から悪事に手を染めることが多く、それが初動捜査のミスにつながりました。

カティヤ自身も犯罪に手を染めてないものの、昔から薬物を常習していたとことがわかるシーンがあります。

結果的に薬物を使っていたことが、加害者側の弁護団による目撃証言の信憑性をつぶす戦法の材料に使われ、犯人たちは無罪となってしまうところが、なんとも皮肉でやるせないところですね。

まあ、簡単に言えば「日頃の行い」が良くないと、こういうところで足をすくわれてしまうということかもしれません。

このように善悪のはっきり分かれたストーリーでないところが、見ているものを映画に引き込ませ、考えさせる魅力となっていますね。

4.センスの良い邦題

二度の決断とは、1度目はキャンピングカーに爆弾は設置したけど思い返して取り戻したところで、2度目はやはりまた思い返して加害者夫婦とともに自爆したところだと思います。

まあ、一般的にはですが。

ただ、お風呂での自殺を考えると、自殺も二度決断しているとも言え、この「二度の決断」という題名が重層的な意味を帯びてきます。

2回と考えれば、裁判の回数も当てはまるかもしれません。

この映画の原題は『Aus dem Nichts』で、訳せば「無の底から」、「無の果てより」といった意味らしいです。

これはこれで、深遠な題名でいいかもしれませんが、日本の会社が考えたこの『女は二度決断する』も映画の内容に合っていて、素晴らしいと思いました。

おかしな邦題の付け方もありますが、たまに原題を超えてしまうようなインパクトのある邦題もありますよね。

たとえば『俺たちに明日はない』(原題Bonnie and Clyde)や『アナと雪の女王』(原題 Frozen)など、原題をそのまま訳すよりも想像力をかき立てられるような邦題があるのも確かです。

5.なぜ最終的に自爆したのか??

なぜカティヤが一度はやめた復讐を思い返して、自爆という形で実行することにしたか?

これがこの映画で大きく話題になったところであり、また物議を醸したところですよね。

ネット上で見ると、いろいろな意見がありますが、個人的にはどれも正解だと思っています。

自殺する理由は1つではなく複合的な要因が重なるときだという考えがありますが、これがそのまま当てはまるでしょう。

映画の描写も明確には描かれてはなく、セリフをおさえて役者の表情・行動だけで表現しており、あくまでも観客の想像にゆだねている感じです。

とは言え、これだと自分の考えを述べてはないので、自分なりに素直に考えた理由は2つあって

①冷静になって一度目の決断をやめた後に、事件以来緊張状態で来なかった生理が来たこと

②かつて家族で訪れた海の動画を見たこと

だと思っています。

①は夫婦殺害をやめたことを考え直すきっかけとなったことであり、②は自爆する決心をするきっかけとなったと考えます。

まず、①ですが、ずっと来なかった生理が来たというのは、つまり

「子供を作れる」⇒「やり直せる」「過去を捨てて次に向かう」ことをカティヤの身体自身がカティヤ自身に訴えたものです。

カティヤはこれが、自分自身に対する裏切りだと感じたのでしょう。

それはつまり、

「記憶の忘却」の始まりであり、夫と子供との思い出が薄れていく

ことを意味しています。

たぶん彼女は二人との思い出と愛情を心にずっととどめていた、そして永遠にとどめているつもりだったのでしょう。

しかし、それが無理であることを他ならぬ自分自身の生理現象によって知ったため、この人間の「忘れていく」というある意味の生存本能に恐怖を感じたのでしょう

そして、最後に②の動画が決定打を打ってきます。

動画には父親ヌーリと子供のロッコが海で遊んでいて、ロッコが浜辺にいるカティヤに

「ママもこっちにおいでよ!」

と叫びます。

決断するまでの時間は長くても、決断する結果はこういう何気ないことセリフなどきっかけであることよくあります。

たぶんこの子供の声を聞いて、カティヤは3人の思い出を永遠なものにする決断をしたのでしょう。

6.主人公の最後の決断の是非

カティヤは最終的に自爆という形で、復讐を成し遂げます。

この行為について、カンヌ映画祭では議論が巻き起こり賛否両論の声が出ました。

論理的かつ法律的に考えれば、言うまでもなくカティヤの行為は間違いです。

とりあえず”無実と判断された”夫婦を殺したのですから、普通に考えれば殺人罪の罪名を負うことになります。

また加害者夫婦が有罪でも、復讐という名の私刑は許されません

復讐が復讐をよんで血みどろの争いになってきた歴史を踏まえて、それをなくすために復讐をいったん国家にゆだねる法治概念が生まれたのですから。

ただそれでも、彼女に対して憐憫の情がわくのは、人間が理性的だけでなく感情的な生き物であることの証明であり、彼女が実行に移さざるを得なかった気持ちが痛いほどに理解できるからでしょう。

多くの被害者は復讐を司法の手にゆだねますが、被害者側はいつも裁判ではのけ者の扱いを受けてします。

映画の裁判シーンでも被害者の感情を逆なでするような場面がありますし、実際の司法の場でも、被害者側は蚊帳の外になってきた事実もあります。今でもそうです。

だから、彼女の行為を正当化するわけではありませんが、彼女の行為はこれまでの被害者と被害者家族の感情を代弁しているのでしょう。

実際にはなかなか実行できないことがわかっているからこそ、誰もカティヤを犯罪者とは見ずに、ある意味愛情深い勇気ある女性と見るのだと思います。

7.社会性と娯楽性のバランスの良さ

この映画に限らず、いい映画は社会性と娯楽性のバランスがいいと思います。

エンタメ性にとんだコテッコテなアクション映画を否定する気はないですが(むしろ好き)それだけだと有意義な映画生活は送れないし、かといって、人間の暗部をひたすらむきだしにするようなシリアス映画もずっと見ていては疲れてしまいます。

両者がバランス良くうまく溶け合っているのが、個人的には見て良かった映画と感じます。

この映画は、どちらかというと社会派に分類される映画かとは思いますが、サスペンス的なところもあり、観客を映画の世界にぐいぐい引きずり込んできます。

予備知識なしで見たけど、見終わった後に知識がついてる、あるいは知識欲が出ている映画ですね。

まとめ

いかがだったでしょうか??

本当はカティヤを演じたダイアン・クルーガーの魅力など、もっと書きたいことがあったのですが、とりあえず強引に7点にまとめてみました!

この映画を見て、昔ドイツをレンタカーで旅行したことを思い出しましたね。

いつかドイツ旅行の記事も書ければと思っています♪