今回は映画『リトルダンサー』で主人公ビリーにバレエを教えたウィルキンソン先生にフォーカスした記事を、前編・後編の2つの記事にに分けてご紹介したいと思います。
ネタバレありなので、映画を未見の方は、ご覧になってから記事を読むことをオススメします。
さて、映画『リトルダンサー』の感想をネットで見ると・・・
「あまりにもバレエの先生への扱いが雑すぎ!」
「最後のシーンに先生も登場させろよ!」
※映画のラスト、主役を踊る大人になった主人公の晴れの舞台に、父親・兄そして親友は来ていたが、主人公をバレエの道に導いてくれた恩師の先生はいなかった。
というのがありました。
自分はバレエを十数年以上やっているので、映画の視点だけでなく、バレエの視点からこの疑問にお答えしようと思います。
この記事の流れとしては、
①ストーリーの流れとしてウィルキンソン先生がラストに登場しなかった理由(映画的視点)
②実際のバレエ界の視点から、ウィルキンソン先生がラストに登場しなかった理由(バレエ的視点)
となっています。
今回は前編ということで、①のみを、お話ししようと思います。
ドラマの作りとしてウィルキンソン先生を登場させたい気持ちはよくわかりますが、登場させなかった映画の作り手の視点と、作り手でさえ想像しなかったであろうバレエの視点を紹介していこうと思います。
まずは映画『リトルダンサー』あらすじをおさらい
まずは、映画の簡単なあらすじをおさらいしておきましょう♪
「1984年、イギリスの北東部にダラム。炭鉱として栄えていたその場所はサッチャー政権による政策への対抗で組合運動が激化していた。11歳のビリーは父親から無理やりボクシングを習わされていたが、ふとしたことからバレエに興味を持ち始め、踊ることにのめりこんでいく。保守的な土地柄で、父親も兄も始めはバレエなど女の子のやるものだと認めなかったが、ビリーのバレエへの情熱を最後には理解し、夢をかなえてやろうと決心する。」
大雑把に言うと、このようなあらすじです。
主人公が習うバレエのウィルキンソン先生は、途中こそビリーのために全力で指導する場面がずっと続きますが、物語の終盤では、父親がビリーの夢をかなえるために奮闘するシーンが画面を占め、ウィルキンソン先生は物語からフェイドアウトしてしまいます。
そして、ラストシーンで、ビリーが主役で出演する晴れ舞台でも、家族や親友は登場するのに、バレエの指導に関してビリーに心血を注いでいたウィルキンソン先生は登場せずに映画は終わってしまいます。
映画を見た後、多くの人は
「先生も登場させてあげなきゃ、なんだかかわいそう!」
とあまりにも報われないウィルキンソン先生への雑とも見える扱いに嘆くのも理解できます。
ストーリーの流れとしてウィルキンソン先生がラストに登場しなかった理由(映画的視点)
青い橋の場面
映画的視点からウィルキンソン先生がラストに登場しなかった理由を述べる前に、まずは「青い橋」のシーンを思い出してみましょう。
「青い橋」のシーンは、ビリーとウィルキンソン先生が、『白鳥の湖』の音楽を聴きながら、車に乗って川を渡るときに出てきた場面です。
橋げたの下につるしたゴンドラに、車ごと乗って川を渡るので、非常に印象的なシーンとなっています。
ちなみに、この橋はミドルスバラ(Middlsbrough)にあり観光客も訪れる名所となっています。
ウィルキンソン先生が説明する『白鳥の湖』のストーリー
ここで、ウィルキンソン先生は、『白鳥の湖』の話を説明します。
ビリー:いい音楽だ。ストーリーあるの?
ウィルキンソン先生:もちろん。悪い魔法使いに捕まった若い娘の話よ。
ビリー:つまらなそう。
ウィルキンソン先生:魔法使いはその娘を白鳥に変えてしまうの。でも夜が来ると彼女は数時間姿を変えて、人間に戻れるの。そしてある夜、彼女は王子様に出会い、王子は恋をする。その恋の力が、彼女を元の人間に戻すたった一つの力なの。
ビリー:それで?
ウィルキンソン先生:王子は別の女と結婚。
ビリー:娘は白鳥のまま?
ウィルキンソン先生:彼女は死ぬ。
ビリー:裏切られて?
ウィルキンソン先生:(質問を無視して)着いたわ。ただのお話よ。乗って。
ちなみに、『白鳥の湖』はハッピーエンドとバッドエンドの2つのバージョンがあり、ウィルキンソン先生は後者のほうで話しています。
さらに王子は別の女性と結婚するという、実際のバレエの演出でもあまりない展開を、ウィルキンソン先生が自分なりに創作し、独自のオリジナルストーリーで話しています。
ウィルキンソン先生は救われない白鳥の役割
ビリーにこの話をしている時、ウィルキンソン先生は『白鳥の湖』のストーリーになぞらえて、自分の厳しい現実を語っていたのです。
それはつまり
「ビリーには才能がある。必ずバレエダンサーとして成功するだろう。そして、私は忘れ去られる。王子に裏切られた白鳥のように」
実際ビリーはロイヤルバレエスクールに合格しても、指導してくれた先生にはすぐに報告せず、ロンドンに出立する直前になって遅れて先生を訪問しています。
そして、映画も家族愛のシーンが前面に出され、ウィルキンソン先生は寂しくレッスン場所でたたずむシーンを最後に、物語から退場していきます。
青い橋でのお話は、そんな結末になることをウィルキンソン先生は予言していた場面であり、それでもビリーのために自分ができることはすべてしょうと決意を固めた瞬間でもあるのです。
まとめると
ウィルキンソン先生⇒王子に捨てられる白鳥
ビリー⇒白鳥を捨て別の女性と結婚する王子
という構図になります。
映画はこの悲劇である『白鳥の湖』を、ウィルキンソン先生とビリーの師弟関係に当てはめて物語を展開しているのです。
それ故に、ビリーがロンドンに旅立った時点で、ウィルキンソン先生の役割は終幕し、当然最後のシーンにも登場しないのです。
ウィルキンソン先生はその後どうなったか
ウィルキンソン先生が、ビリーが自分のもとを去っていくのことを確信していたのには、いくつか理由があるでしょう。
考えられる理由の一つとしては、自分のバレエレッスンは、ロイヤルバレエスクールに比べれば、レベルが格段に劣るということを知っていたからでしょう。
ビリーがロイヤルバレエスクールで学び始めれば、すぐに自分の指導力のなさを知り、先生はバレエを教えるに値しない教師だったと幻滅するだろうと思ったかもしれません。
また、母親のような気持ちで指導してきたが、結局ビリーは自分の子供でないし、実の親には勝てないことも意識していたのでしょう。
そういう思いがあって、あの「青い橋」の場面では、ビリーに対してというより、やはり自分に対して言い聞かせていたのです。
そして、予言は見事に的中してしまい、最後にウィルキンソン先生はビリーの晴れ舞台の会場には現れません。
はっきりとは描かれてはいませんが、先生が「白鳥は死ぬ」と言っていたので、物語の流れでいえば、おそらく彼女は死んでいるのでしょう。
タバコを吸うシーンが多かったので、肺ガンだったのかもしれません。
いずれにしても、映画の作品の流れとしては、先生を最後に登場させることはできない物語となっています。
最後に
ビリーの物語としてはサクセスストーリーですが、ウィルキンソン先生との関係で見れば、『白鳥の湖』(バッドエンディング版)のなぞらえた悲劇だったのかもしれませんね。
ただこれだとあまりにもウィルキンソン先生が救われない筋書きなので、前述したとおり、後編はバレエの視点からウィルキンソン先生がラストに現れなかった理由を「提案」できればと思います。
映画的視点では、ウィルキンソン先生は報われない終わり方ですが、バレエの視点から考えれば、ハッピーエンドとまでいかなくても、ありがちな理由はつけることができますので、後編もこのあとお楽しみいただければと思います。